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宗教法人 日本キリスト教団

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3-12-14

月報コラム2016

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2016年12月号「聖書に生きる」

 私は高校生の時、2年ほど演劇部に所属していました。興味があったというよりも、クラスメイトに誘われたのです。学芸会レベルだったかもしれませんが、キャストや演出を経験し、地方大会にも出場しました。もう20年以上も前のことで、記憶もだいぶ薄れています。それよりも私がしっかり覚えているのは、教会学校でずっとクリスマス・ページェント(聖誕劇)に関わって来たことです。

 皆さんは登場人物をすぐに思い出せますか? ヨセフ、マリア、天使、羊飼い、博士、宿屋、ヘロデ、それに小さい子供たちには羊の役が当たることもあります。赤ちゃんがイエスの役をすることもあるかもしれません。高校生になると裏方に回り、ライトの操作や小道具の準備をしたり、神学生の時には台本を書いたりしました。聖誕劇ではなく、トルストイの「靴屋のマルチン」を上演した時には、音楽教員に劇中歌を作ってもらったこともあります。教会学校のスタッフにだいぶ無理をお願いしたことは申し訳なかったのですが、良い思い出です。

 素人ですから、プロのようにはいきません。それでも子どもたちの演技はそれぞれ特徴が出て微笑ましく、時には感動を生みます。多聞教会でも将来、クリスマスの劇ができるようにしたいですね。もちろん、大人がやっても良いのです。それに、聖書の登場人物に実際になってみると、ただ聖書を読むよりも新しい発見があるかもしれません。ヨセフが身重のマリアの手を引いて礼拝堂の中を旅したり、天使が声を合わせて祝福したり、杖を持った羊飼いが焚き火を囲んだり、博士がひれ伏して宝物を捧げます。こうした登場人物の一挙手一投足が、主イエスのご降誕の本当の意味を、生き生きと知らせてくれることでしょう。

 私たちも2000年の時を超えて、この聖誕劇の登場人物の一人です。王宮や神殿ではなく、馬小屋という一番小さく弱い場所に現れる、救い主へと招かれているのです。私的な解釈ですが、ヨセフとマリア(戸惑いと信仰)、天使(預言)、宿屋(人道)、羊飼い(弱者)、博士(異邦人)、ヘロデ(現世)、そしてイエス(愛)というように、私たちが生きている舞台の構図がうかがえます。そして間違いなく、私たち一人一人も同じようにそこに立ち、生きているのです。そういう意味で、私たちは今まさに新約聖書の住人です。とりわけ、悩み、苦しみ、痛み、寂しさ、戸惑いと迷いの中にある人、戦争や災害、政治的混乱の中にある人、社会に抑圧されている人にとって、主イエスは真の希望の光です。

 世界中のキリスト教会が、毎年この季節に希望のメッセージを語ります。どうかそれぞれの働きが祝福され、栄光が神にあり、地に平和が訪れますように。

2016年11月号「天上の友」

 カトリックでは11月1日に、「聖人」や殉教者を記念する「諸聖人の日」が守られます。アメリカ合同メソジスト教会でも、1日か、第1日曜日にオール・セインツ・デー(All Saints Day)として礼拝を守ります。ただしカトリックと違うのは、いわゆる「聖人」を信仰の対象としたり、拝むことはしません。また、カトリックは教皇庁列聖省が、尊者・福者・聖人を決めていますが、そのようなシステムはプロテスタントにはありません。

 一方メソジストでは、ごくごく初期に主イエスに従った人々を聖人として記念するのですが、それだけでなく、その一年に召天された方々のお名前を読み上げて追悼することが多いです。私が所属していた日系教会グループによる春の大会(総会)でも、11月ではなかったものの、過去一年に召された方々のお名前を礼拝中に紹介し、献花するという伝統が今でも続いています。母国を離れ、神さまを信じて生きてきた日本人や日系人が互いの人生を覚え合うことで、信仰の絆をより深めるのです。

 組合派(会衆主義プロテスタント教会)に所属する私たちは、聖人や召天者を拝むことはありません。礼拝の対象はあくまでも神さまだけです。例えば、召された方に手を合わせることはありませんし、もっと言えば、その魂を慰める必要も無いとさえ言われます。というのも、すでに彼らは神さまの御もとで絶対的な平安の内におられるからです。むしろ私たちが、天上の友から生きるための慰めと勇気を得るというのが、教会における追悼のあり方です。

 これまで、牧師として多くの方々を天に送ってきました。その都度、どのような人生を送られた方でも、神さまの御もとでは何の痛みも苦しみもなく、平安の内におられるという確信が与えられます。生前の信仰の大小によって天国の段階が変わるということもありませんし、私たちが神になって拝まれることもありません。このような平安の約束を確信できる理由は、主イエスが私たちと共におられるからです。すなわち、神の国に入る資格の無いものが、ただ主の執り成しによって受け入れていただけると信じるからです。

 私たちは「聖人」ではありません。けれども、信仰を持って生き抜いた天上の友たちの歩みを辿りつつ、いつかは訪れる己の終わりをしっかり見つめ、それぞれに与えられた人生を有意義に過ごして参りたいと思います。

2016年10月号「礼拝を守る」

 皆さんは週毎の礼拝を大切にされていると思いますが、教会のことを知らない方に「礼拝とは何ですか?」と聞かれるとき、どうお答えになるでしょうか。お祈りすること、賛美すること、聖書を読むこと、メッセージを聴くといった基本的なこともありますが、心が安らぐとか、お友達に会えるといった面もあるでしょう。まさか、礼拝に出ればゴリヤクがある、とは言わないでしょう…ね?

 私は牧師家庭に生まれましたから、礼拝はずっと生活の一部のようなものでした。おそらく他の牧師子弟と違ったのは、(父が教員になったため)物心ついた頃には牧師館ではなく、一般の住宅に住んでいたことです。両親は同志社教会、私は実家に近い膳所教会に通っていました。

 当時は「礼拝とは何か」なんていうことは考えたこともなく、教会学校の友達や先生、神学生に会うのが楽しみでもありました。仙台の大学へ進学することになっても、聖歌隊の先輩が通っていた仙台五橋教会に籍を移し、自然に教会生活を続けました。ある意味、親に強制されることなく教会につながり続けることができたのは、やはり沢山の良い出会いがあり、自分なりに安心して過ごすことのできる居場所となっていたからです。一般就職をせずに牧師の道へ進むことになったのも、各地の教会で出会った多くの方々に支えられてきたからだと感謝しています。

 恥ずかしながら、あまりにも当たり前に過ごしてきたからこそ、「礼拝とは」ということをほとんど考えることなく歩んできました。大人になってから初めてクリスチャンになった方に、「それは幸せなことですよ」と言われたことがありますが、最近になってその言葉の意味がわかるようになりました。例えが不適切かもしれませんが、日本の総人口の1%にも満たないクリスチャンへと導かれるということは、宝くじに当たるようなものなのかもしれません。

 結局、礼拝について考えるようになったのは神学部に進んでからでした。神学的に言えば、「神の働きへの人間の応答」と言うこともできるでしょう。けれどもそんな難しい言い方をしなくても、皆さんそれぞれ礼拝に対するお考えがあるのだと思います。今月最後の日曜日(30日)には、同志社で礼拝学などを中心に教えておられる越川弘英先生を講師にお迎えし、皆さんと一緒に礼拝について学び、また皆さんの思いを分かち合っていただけたらと期待しています。

2016年9月号「恵老感謝」

 「敬老の日」に合わせて、私たちの教会でも9月18日(日)の礼拝で敬老祝福をいたします。私の両親も70半ばで、一番大きな孫は高校生となり、今やお祝いされる側です。昔は40歳で初老と言われていたことを考えると、私自身も人生の折り返し地点にあることを思わされてギョッとします…。

 私が宇和島信愛教会にいたときの役員会で、「敬老のお祝いをする方の年齢を引き上げませんか?」という提案がなされました。メンバーの高齢化が進み、該当者が多いということでした。年金受け取り年齢の引き上げなら大反対が起こるでしょうが、ここではすんなり了承されました。役員の一人は、「去年お祝いされたが、(該当しなくなって)今年はされないので若返った感じがする」と言って笑っておられました。またこの教会では、「敬老」ではなく、老いることは恵みであるということで「恵老」と言い換えていて、なるほどと思わされました。

 ところで、日野原重明さんという100歳を超えてなお、現役の医師を続けておられる方をご存知でしょうか。私がサンフランシスコにいた頃、パイン教会の主日礼拝で奨励をしていただき、午後から別の大きな会場にて講演会が開かれました。講演の冒頭で先生の紹介役を仰せつかったのは良い思い出ですが、500人を超える出席者に向けて、「日々成長である」とお話しされたことは非常に印象的でした。老いるということに、弱さどころか力強ささえ感じたものです。

 もちろん、誰しもが長寿と健康を享受できるわけではないのが現実です。しかし、老いというものが、もう成長しない、あるいは弱るだけと悲観するのではなく、これまで与えられてきた恵みを活かすこともできると思うのです。特に「信仰」という部分は日々成長し続けるもので、もうこれで完成、達成、悟りを開いた、ということにはなりません。それでも、長い人生の中で神さまの愛に出会い、捕らえられ、そしてこれまで歩むことができた感謝を、次の世代の人々に語り伝えることができます。聖書は「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(箴言16:31)と語り、老いることを肯定しています。アブラハムとサラも、ザカリアとエリサベトも、老いてなお神に用いられました。神にできないことはないのです。

 このようにして主イエスへの信仰は2000年の間、それぞれの時代の紆余曲折を経ながらも、世界中の有名無名の信徒たちの豊かな証しによって引き継がれてきたのです。私たちもまた老いも若きも共に手を取り合って、先達者たちの信仰の歩みをたどって参りましょう。

2016年8月号「平和への祈り」

 昨夏の衆参本会議において、集団的自衛権行使を含む安全保障関連法案が通過し、今年3月29日に施行されました。与党による強行採決の様子は米国でもニュースになり、当時在米中だった私も、一人の日本人としてこれからどうなってしまうのだろうという不安を抱きました。実際、このニュースは海外にいる日本人・日系人の立場を危うくさせ、さらに米国に追従した形でのテロとの戦いを表明したことで、日本人も標的になっています。これまで積み上げられてきた公私大小の平和への取り組みに、大きく水を差していると言わざるを得ません。

 安保法についての反応は、米国は日本との連携拡大を歓迎、中国は反対、アジア諸国は中国の台頭を牽制する思惑もあって歓迎、というのがおおよその実態です。日本国内では、戦争ができるようになる、あるいは戦争に巻き込まれるのではないかという声と、(お金だけ出すのではなく)同盟国と共に戦えるようにすることがむしろ抑止力になるという声が激しくぶつかっています。抑止力というのは表面上の理屈で、なし崩し的に自国の軍隊を持ちたいと狙っている人たちもいるのでしょう。憲法改正についても、先の参議院選挙で現実味を帯びてきました。私の個人的な感覚では、互いに武器をチラつかせながら保たれている均衡状態(消極的平和)というものが、果たして本当の平和なのだろうか?という疑問を持っています。

 日本の動向を見ながら、ウェスレー教会の山本一先生とシカモア教会の吉岡恵生先生、そしてパイン教会にいた私は、ベイエリア日本人牧師有志の会を急遽立ち上げ、昨年の8月15日に「第一回 アメリカで平和を考える集い」を開催しました。講師を依頼した米国合同メソヂスト教会引退牧師のN氏は、乳児の頃に長崎で被爆された経験を交えながらお話ししてくださり、沖縄にルーツを持つ日系人のMさん(パイン教会)からも、米国市民、そしてクリスチャンとしてのお考えをシェアしていただきました。

 参加された皆さんと話し合う時のルールは、どのような意見も互いに聞く、ということを最初に確認しました。クリスチャンだからといって何でも一枚岩になれるわけではありません。しかし大切なことは、一人一人が平和について真剣に考えるということ、そしてそれぞれの思いが違ったとしても、平和への祈りにおいては心を合わせるということです。私たちも、「平和を実現する人々は幸いである」(マタイ5:9)という主イエスの言葉に、具体的にどのように応えていくことができるかを尋ね求めつつ、日々祈りをもって歩んでまいりましょう。

2016年7月号「希望をもつ」

 「信仰、希望、愛」というキリスト教が大切にしているモットーの中で、私たちは「希望」に対してどれほど意識しているでしょう。ときどき私たちの間ではそれを、夢物語、現実離れした理想、あるいは逆に、計算可能な打算的未来像といったイメージに閉じ込めてしまうことがあります。「夢も希望もない」、あるいは「神も仏もいない」という言い回しが、そもそも存在しないもの、目に見えないものを信じることへの批判をどこかに内包しているようにも思えます。こういった、何をしても無駄、なるようにしかならないというような価値観は、私たちの信仰とは真逆のものです。

 私たちは希望と願いを、祈りの中で表明します。困難の克服、病の癒し、関係の回復、成功や改善と枚挙にいとまがありません。しかし最後には「主イエスの名によって」祈ります。つまり、私たちの祈りが自己中心的な思いではなく、主イエスの執り成しによって、神さまの御心に適う形で聴かれることを願うのです。私たちの祈りは必ず聴かれます。ただし、それが私たちの思い通りの結果として与えられるとは限りません。石をパンにはできないし、湖の上を歩くこともできないし、山を動かすこともできません。けれども、私たちの思いがけないありようで、それぞれにふさわしい恵みが与えられるのです。このことを私たちは聖書、あるいは信仰の先達者をとおして、証しとして示されています。

 6月19日の午後、私の牧師就任式がありました。多くの方々がご出席くださり、今後の神戸多聞教会のために祈ってくださいました。感謝しつつ、こころ一つに、希望をもって歩み出したいと思います。私たちの祈りの課題は多くあります。宣教の働き、子どもの教会再開、礼拝の充実、皆の健康と平安、どれも教会にとって重要事項です。私は、これらの祈りが主イエスの名によって聴かれること、私たち一人ひとりの賜物が用いられ活かされて、神の御心が成ることに希望をもっています。そして、聖霊の働きと導きが、私たちの教会の上に豊かにありますようにと心から祈っています。

2016年6月号「恵みに感謝して」

 6月19日(日)午後3時から、私の牧師就任式が予定されています。就任式には、司式をしてくださる菅根信彦先生をはじめ、多くの方が出席してくださいます。新しく牧師が就任するということを、多聞教会だけの出来事ではなく、地域のキリスト教界全体の喜びとして覚えてくださいます。この暖かい交わりに感謝しつつ、私たちもまた、その一員としての役割を果たして参りましょう。

 ところで私は、2010年夏頃に宇和島信愛教会辞任を申し出ました。早速、招聘委員会が組織され、後任牧師探しが始まりました。しかし私の心配も虚しく、無牧のまま宇和島を去ることになりました。近隣の先生方が支えてくださり、私はいつ承認されるかわからないVISA(労働許可)を待つために、大津の実家で無為に過ごしました。

 日本全国どこでもですが、特に地方の小さな教会は、過疎化、少子高齢化、そして財政難によって、フルタイムの牧師を迎えることが難しくなっています。そういう意味では、前任地のパイン教会日語部も同じような状況にありました。各教区が互助システムを導入して対応していますが、決して十分ではありません。しかし教会も牧師も、それぞれの置かれた場所が神さまによって備えられた教会であることを信じて、懸命に福音伝道に励んでおられます。

 神戸多聞教会も、代務の先生たちに助けられながら歩んでこられたと思います。今度は私たちが、与えられた恵みに感謝し、またそれを惜しむことなく分かち合うことができる教会へと成長できますように、祈りつつ歩みたいと思います。


Kobe Tamon Church神戸多聞教会

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